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一周忌、でした

昨年の3月12日に逝去された真砂卓也さん。



昨日はバンドメンバーでお参りにお寺に参り、本日は法隆寺のご自宅に一周忌の法要にお伺いいたしました。




お仏前にはバンドメンバーから手配した花が飾られておりました。まめさんの知人がご経営されているフラワーショップで作成いただいた献花はとても儚く、美しく、ご親族の方にもとても喜んで頂きました。




あれからもう一年、と思うと色んな思いが去来いたします。




真砂さんの戒名には「奏」という一文字が含まれております。音楽を心から愛し、演奏をする事にも教える事にも何よりの喜びを感じられていた真砂さんを体現されていると思います。




音楽は、不思議な事に、今、この瞬間に聞こえる楽音だけでは成立しないんです。




聞き手には「もう聴こえなくなった楽音」が心で残響していて、「まだ聴こえていな楽音」の予感が存在するから私たちは音楽を味わえるんですね。ですからモーツァルトも、マイルス・デイビスの音楽も単独の音だけでは無意味で美的価値もないんです。




ですから音楽を愉しむには時間的な意義が必要なんです。今までの過ぎ去った響きとこれから流れるメロディが全て過ぎ去り、一曲が終わった後で、その曲は初めて意味を持つ。




そう思うと・・




私たちが生きてゆく事も、ひょっとして「生涯を通じて一つの曲を演奏すること」なんじゃないかな、と思いました。




真砂さんが一生を通じて遺された様々な言葉や行動、それらが最期に終わってしまい、そこで初めて意味を持つ。




その時々は意味が判らなくとも今となればそれらが実を結び、一つ一つがある楽曲のように立体的に浮かび上がり、意味を持つ。




それが、その楽曲が、あまりに大きくて、暖かくて、優しかったからー




今際の時にあれだけ多くの人が集まって、涙を流して、手に触れて、それでも笑顔で一人一人が感謝を述べて・・・




そんな気がいたしました。




真砂さん。




もう一度、本当にありがとうございました。


ぞに

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by triothep | 2018-03-04 20:03 | とりぴ番外編